take it easy,go with the flow. #008
Photo © RICA
先月、アップル社のスティーブ・ジョブズ氏がCEO(最高経営責任者)を辞任し、第一線から退くことを発表した。コンピュータ技術に関し、筆者は全くの門外漢であるが、それでもアップル社の製品のファンであり、その恩恵に与った一人として、氏の功績には目を見張るものがあったと思う。
新製品発表の度に自ら完璧なプレゼンテーションを行ってきたジョブズ氏。マッキントッシュ・コンピュータを発表した若かりし1984年からiMacの98年、iPodの01年、iPhoneの07年、そして現在に至る彼の映像を振り返ってみると、同社の製品がどんどん発展・成長していく傍ら、彼自身が加速度的に老いていく様子が伺える。
そんなジョブズ氏の姿を見ていて、ふと木下順二の戯曲『夕鶴』(原案『鶴の恩返し』)の話を思い出した。
若者の与ひょうは、ある日、罠にかかって苦しんでいる鶴を助ける。数日後、彼の家につうという女性がやってきて、「女房にしてほしい」と言い、ふたりは夫婦として暮らし始める。ある日、つうが与ひょうに、決して部屋を覗かないよう念を押し、美しい布を織り始める。つうが織った布は高値で売られ、大金が入ってくるようになる。しかし、与ひょうは好奇心の余り、約束を破って部屋を覗いてしまう。そこで彼が見たのは、いつか彼が助けた鶴が、自分の羽根を抜いて機を織る姿だった。正体を見られたつうは、もはやそこにはいられないと、与ひょうの元を去る。
自ら予言した通り、ジョブズ氏は世界を変えた。世界を変えるには計り知れない情熱とエネルギーがいる(とりわけ彼のように公言してしまったら、そこにプレッシャーも加わる)。芸術的作品を作り上げたり、ビジネスを始めたことのある人なら身に覚えがあると思うが、自分を奮い立たせ、それまでこの世に存在しなかった全く新しいものについて、周囲の人間を納得させ、彼らを動かして形にするのは、まさに身を削るような努力を要する。何か素晴しいものを創造することは神の偉業に近いものであるが、人間は神ではないから、激しく消耗する。この作業は、自分の羽根を抜いて機を織る鶴の姿に似ている。ジョブズ氏もまさに何年にも渡り、自分の羽根を抜き続けてきたのだ。それが世間にも分かるようになり、彼自身の中でも目標をやり遂げたという実感があって、今回の決断に至ったのだろう。
『夕鶴』の物語にこめられたメッセージは、たとえ恋人や一緒に暮らす夫婦であっても、その人の全てについて干渉すべきではない、お互いの領域を尊重すべきだ、ということだと筆者は考えている。相手の全てを知りたいと思ってしまう段階で、実はその関係は危機的状況なのだ。たとえば、民話の世界から現代の設定に置き換えて言えば、パートナーや恋人の携帯電話のメールを勝手に覗き見ることはタブー。相手が誰にどんなメールを書こうが、それは全くその人の自由。心の自由があって初めて、愛や信頼、友情が育つ。相手を自分の都合のいいように変えようとするほど、その相手は確実に離れていく。相手の領域を尊重し、信頼し、安心して任せている時こそ、その関係は最もうまくいくだろう。
その流れから言えば、ジョブズ氏本人が公に発表しない限り、これ以上、彼のことを詮索するのは控えるべきだろう。今は氏にただ、たいへんでしたね、本当にお疲れさまでした、と言いたい。
写真、テキスト:RICA
日本と米国で教育政策を学び、東京で文化交流の仕事に携わった後、99年渡英。執筆、経営、映画という3つの分野で活動中。今後はパリ(フランス)も新たな活動拠点に加わる予定。
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