「椅子の距離感」酒井邦嘉 3/全3回
椅子の距離感 02
フィン・ユールは次のように述べています。「職人の造形能力は、おそらく彫刻家のそれと同じでしょう。椅子は単に空間にある装飾美術の産物ではありません。椅子はそれ自体において形であり、空間なのです。」彼のイージー・チェアの形には確かにその哲学が息づいています。フィン・ユールは、当時加工の難しかったチーク材を家具の主要材として初めて導入した事でも知られます。チーク材は「木目がないのが特徴」と紹介される事がありますが、これは明らかな間違いです。チークの木目は本当に美しいものです。彼のイージー・チェアに与えられる造形の最後の仕上げ(final touch)は、まさにこの木目が生み出す自然の風合いでしょう。
理想のイージー・チェアを求めて
イージー・チェアの特徴であるひじ掛けは、もちろん両腕を支えるためのものです。両腕を合わせた重さは体重の1割程度で、頭と同じ位になります。頭は背骨で支えていますが、腕は肩からぶら下がっていますから、肩こりの人がくつろぐには、ひじ掛けが必須というわけです。ダイニング・チェア(食卓用椅子)ではテーブルの高さに合わせる必要もあって、ひじ掛けがあったとしても最適な位置より低くなってしまいます。また、ソファ(長椅子)では片方のひじ掛けしか使えないので、使い勝手がイージー・チェアと違います。
イージー・チェアの次の特徴は座と背の傾きです。ダイニング・チェアなど一般の椅子の座はほぼ水平で、背が垂直のことが多く、背にもたれかかることをあまり重視していません。一方、イージー・チェアでは座の後ろが前よりも低く傾いており、それに合わせて背も後ろ向きに傾いています。これは乗り物のリクライニング・シートと同じ理屈で、体重を座だけでなく、できるだけ背にも分散させるためです。体重だけが問題ならば仰向けの姿勢に近づければ良いわけですが、あまり傾けすぎると読書の時に頭を上げるのがつらくなりますから、この適度な傾きが大切なのです。ロッキング・チェア(揺り椅子)のように椅子が動かない分、姿勢を多少変化させても安定して座れる事になります。逆に、イージー・チェアにゆったり座った姿勢の場合、机で作業したり食事をしたりしにくくなります。やはり、椅子は目的に合わせて選ばなくてはなりません。
イージー・チェアの第三の特徴は快適なフィット感です。長く座っていても、座っている事自体を忘れられるような「自然な椅子」がベストであり、腰と背がすき間なく椅子にフィットするのが基本です。そのため、低い背板や支柱だけが後ろに並んだものよりも、体との接触面積をできるだけ大きくした背板の方がはるかに楽なのです。それから、自然と腕をひじ掛けに載せた時に、その高さが合っている事が大切です。オフィス・チェアのようにひじ掛けの高さを調節できるイージー・チェアはありませんので、設計が優秀なもの、自分に合ったものを探すしかありません。最後に、座の高さが自分の膝下の長さに合っている事がポイントです。脚を短くカットしてしまった、フィン・ユールのビンテージ品を見た事がありますが、とても残念な気がしました。一般の人が入手できるとは言え、オリジナルの椅子は貴重な文化遺産でしょう。
自分に合った、お気に入りのイージー・チェアを探すのは、逆に自分の嗜好やライフスタイルを意識する事にもつながります。椅子に対する意識が自分自身に戻ってくるからこそ、自然と生活がより快適な方向へと変わっていくのだと思います。椅子が与えてくれる心地よい適度な距離感は、自分の生活にとって大切な基盤が実は最も身近な所にあるという、情報に溢れた現代では盲点になりやすい事実を気づかせてくれるでしょう。
酒井邦嘉(さかい くによし)1964年、東京生まれ。1987年、東京大学理学部物理学科卒業。1992年、同大大学院理学系研究科博士課程修了。理学博士。1995年、ハーバード大学医学部にリサーチフェローとして留学。1996年MIT(マサチューセッツ工科大学)で言語・哲学科客員研究員を経て、現在は東京大学大学院総合文化研究科准教授。『言語の脳科学』(中公新書)で第56回毎日出版文化賞受賞。他に『科学者という仕事』(中公新書)、『脳の言語地図』(明治書院)など著書多数。
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