「椅子の距離感」酒井邦嘉 2/全3回
イージー・チェアのデザイン
「イージー」だからと言って、イージー・チェアは決して「簡単な」椅子ではありません。むしろ、椅子の中でも究極の難しさを持っていると言えるでしょう。体を正確に測定して椅子に反映させ、「人間工学」に基づいたデザインをしたからと言って、それが快適な椅子になるとは限りません。優れた道具は人間と対象とのインターフェースを重視してデザインされますから、椅子の使用目的はもちろん、スペースや環境、視覚的な効果や椅子の材質を含め、さまざまな要素が椅子のデザインに求められます。これには「人間にとって何が快適なのか」、という人間の心理の問題が含まれるので、奥深い脳の問題でもあります。椅子は実に「人間的な道具」なのです。
椅子は建築家がデザインする事が多いそうです。人間の置かれた環境の最大の制約の一つが「重力場」であることを考えると、椅子を「一番身近な建造物」と見なす事も、それほど大げさな話ではありません。座板と背板を支えるフレームや接合部の強度を確保するためには、椅子は構造設計の基本を示してくれることでしょう。それと同時に、椅子のデザインにはアートとしての側面もありますので、建築家の芸術性や思想といった個性を投影させやすいと思われます。
(写真:フィン・ユールのイージー・チェア)
さまざまなタイプの椅子の中でも、特にイージー・チェアのデザインは、「機能美」と密接に関係すると私は考えています。デザインの美しさがイージー・チェアに求められる機能と結びつき、そこに有機的で論理的な一体感が生まれるからです。楽な姿勢で座れさえすれば、そのイージー・チェアの機能は十分でしょうか。そこに、座る人の心を楽しくするような工夫があったらもっと良いに違いありません。それがイージー・チェアに対して美意識が求められる所以です。椅子に最適な機能美を追究していくと、面白い事にどんどん人間の体の特徴に近づいていきます。椅子そのものが体のフォルムに近いのは、きっとそのためなのでしょう。確かに、椅子には背・座・脚があり、アームチェアでは両腕までついていますから、頭以外はみんなそろっているのです。体のラインが滑らかな曲線からできているように、イージー・チェアにも曲線の美が必要でしょう。
これはちょうどヴァイオリンの機能美と良く似ています。ヴァイオリンの胴の右側がC字状にくびれているのは、演奏時に弓が接触しないために必要です。しかし、右側だけをくびれさせるのでは美しくありません。ヴァイオリンの外形に機能美を求めると、体と同様に左右対称となります。また、楽器の表板にある孔もヴァイオリンの機能美ではf字状になっていて、真ん中の線が駒を立てる位置を示しています。これは音楽のフォルテ(forte)や女性(feminine)の頭文字にも符合する、洒落たデザインなのです。イージー・チェアにはどんな機能美が適しているのか、考えただけでも楽しくなってきます。
フィン・ユールのイージー・チェア
デンマークの建築家フィン・ユール(Finn Juhl, 1912-1989)は、家具や内装のデザイナーとしても世界的に有名です。フィン・ユールは機能主義の伝統に群れることなく、あくまで独自の「機能美」を追究した孤高の天才でした。イージー・チェアもたくさんデザインしています。中でも「フィン・ユールの45番」は、彼が初めて独立して建築事務所を開いた1945年にデザインしたもので、「世界で最も美しいひじ掛けを持つ椅子」と称賛されてきました。私は「椅子のストラディヴァリ」と呼びたくなります。このイージー・チェアはほとんどの部分が流麗な曲線でデザインされており、実に軽やかで洗練された印象を与えます。革新的な構造上の工夫を随所に施すことで、わずか4箇所を除いて、座と背が一体となってひじ掛けのフレームから離れているため、空中に浮遊しているかのような「イリュージョン」を実現しているのです。この浮遊感を与える軽やかさが、「座り心地」という心理に直接響くわけです。その設計図面もため息が出るほど美しく、水彩で丹念に描かれており、それ自体が芸術作品になっています。心理的な要素まで完璧に計算し尽くしながら、このイージー・チェアは実に自然で美しい佇まいを醸し出しています。
椅子の距離感 03につづく
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