「椅子の距離感」酒井邦嘉 1/全3回
h3mインタビューに登場していただいた言語脳科学者 酒井邦嘉先生。その酒井先生にライフスタイルにおける半径3メートルのエッセイ、『椅子の距離感」を寄稿していただきました。最先端脳科学者の知的な物語を、どうぞお楽しみください。
酒井邦嘉(さかい くによし)1964年、東京生まれ。1987年、東京大学理学部物理学科卒業。1992年、同大大学院理学系研究科博士課程修了。理学博士。1995年、ハーバード大学医学部にリサーチフェローとして留学。1996年MIT(マサチューセッツ工科大学)で言語・哲学科客員研究員を経て、現在は東京大学大学院総合文化研究科准教授。『言語の脳科学』(中公新書)で第56回毎日出版文化賞受賞。他に『科学者という仕事』(中公新書)、『脳の言語地図』(明治書院)など著書多数。
ミステリーでもマジックでも
「安楽椅子探偵」とは、ほとんど現場に赴くことなく椅子に座ったまま推理する探偵を指します。元の英語はarmchair detectiveでその直訳は「ひじ掛け椅子探偵」ですが、やはり「安楽椅子探偵」と言った方が、ゆったりと椅子に腰掛けてパイプを燻らせながら推理する様子をイメージしやすいでしょう。「素人探偵」と揶揄するニュアンスもありますが、安楽椅子タイプの名探偵と言えば、アガサ・クリスティの生み出したエルキュール・ポワロがまず思い浮かびます。中でも『五匹の子豚』は特に印象的です。16年も昔に起こった殺人事件の真相を推理するわけですから、現場に残された物証はすべて記録や記憶の中にしかありません。純粋な心理分析を頼りに五人の容疑者の中から犯人を突き止めなくてはならないのです。『ヘラクレスの冒険』では、冒頭からポワロ愛用のイージー・チェア(easy chair)が出てきますし、有名な『アクロイド殺人事件』でも、ハイバックの椅子(grandfather chair)の置かれた位置が一つの手がかりになっていました。
クロースアップ・マジックではテーブルを使いますが、椅子が必要となる場合もあります。特にコイン・マジックではその必要度が高いでしょう。機動性等を考えると、ひじ掛けがなく、座が水平な椅子の方が適していると思います。一方、メンタル・マジックのように心理的な側面が強いパフォーマンスでは、ひじ掛け椅子に深く腰掛けて行うと、ぐっと神秘的な雰囲気が強まる事でしょう。それから、観客が座っている椅子も、演者との距離や角度を一定に保つ上で役立っているわけですが、椅子の位置に何か意味があるとは気づかないと思います。椅子から得られる距離感はこれまでほとんど意識されて来なかっただけで、実際には人間的な特徴がいろいろと反映されているに違いありません。
イージー・チェアの魅力
「イージー・チェア」と聞いて、どんな椅子のイメージが湧くでしょうか? 日本ではあまり馴染みがないかもしれません。これは「安楽椅子」と訳される通り、両側にひじ掛けがあって楽な姿勢で座れる、一人掛けの椅子を指します。確かにイージー・チェアはアームチェアの一種ですが、両者のニュアンスはちょっと違います。前者は使い方重視の言葉で、後者は形を表す言い方です。実際、ひじ掛けのないカジュアルな椅子までイージー・チェアと呼ばれる場合があります。
イージー・チェアという「マイ・チェア」は、一人で物思いに耽ったり、たそがれたりする時に最適です。読書や音楽鑑賞はもちろん、ノートパソコンをひざに載せれば、両ひじを掛けたままで仕事も実に快適にできます。一方、イージー・チェアにはキャスターがないので、座った時に手が届く範囲も限られます。この距離感を不自由と感じるか、逆にそこに自分だけの自由な空間を見出すかは、精神的な問題でしょう。イージー・チェアの下に椅子より一回り大きなラグを敷き、その隣にサイド・テーブルを置けば、とても居心地の良い「マイ・スペース」が整います。この精神の自由こそが、イージー・チェアの最大の魅力なのです。
椅子の距離感 02につづく
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