デジタルが希少だった頃のこと
初めてコンピューターに触れたのは僕が高校の頃。理系の学校だったから、校舎の一番良い部屋にコンピューターが置かれていた。「電算室」って黒いプラスチックに白の毛筆で書かれた札が下がっていて、そこだけは暑い夏でも常に冷房がかかっている。だから、暑い日に学校にお客さんが来ると、先生はその部屋に案内して「この部屋だけが涼しいもんですからね…」なんて話しているのを耳にしたことがある。
「電算室」なんて仰々しい名前がついていても、広さは6帖くらいの部屋で、そこに洗濯機くらいのサイズの「中央演算装置」が一台。足踏みミシンくらいの「入出力機」が1台、紙テープに穴をあけるための穿孔機(これまたミシンサイズ)が2〜3台くらいあったように記憶している。それでも「ミニ・コンピュータ」なんて呼ばれていた。
プログラムを穿孔機で打つと、長い紙テープが出来上がる。初めてプログラムを学ぶ生徒がかならず作る「1から10までを合計するプログラム」なんて数行のプログラムを書いた。ところが、コンピュータは人間の書いたプロクラムを直接理解できないから、中間言語に翻訳して、最後は機械語に翻訳する。そのあいだに翻訳のためのプログラム(紙テープ)を読み込ませるから、最終的には五巻くらい読み込ませる。そうすると、最後にはコンピュータに接続されたプリンターに「…55」とか印刷される(もちろん、モニタ出力なんてその時代は高価で、公立の学校に設置できるようなモノじゃなかった)。
ところが、それで終わりじゃない。いままで読み込ませた紙テープを巻き戻していく。つまり、コンピューターは人間のことなどを考えずにピューっと読むけれど、読み込みが終わると紙テープはほっときっぱなし。あとで人間が巻き直す。つまり、プログラムの最初がロールの外側になるように)人間が正しい方向にテープを巻く必要がある。巻き取り機というのがあるのだけれど、「機」というのは全くウソで、手動のハンドルがついた「中世の糸巻き」みたいなヤツ。
たいがい、この時点で、とっくに下校時刻は過ぎているから、セッカチな高校生はフルスピードで、紙テープ巻き取り機のハンドルを回す。あとはご想像の通り、テープはよれて絡み、見事にちぎることになる。透明テープで貼ればOKというわけでなく、冒頭に書いたようにテープは穿孔(プログラムが書かれた小さな穴があいている)から、専用の補修テープを水で濡らして貼り、修復する。紙テープで一番太かった翻訳用のプログラムは何十カ所も修復の痕があって、歴代の勇者のようだった。
国産マイクロ・コンピュータの代表作といわれたPC-8001を触ったことがあるという同級生が数人いた頃の話。数年後、大学の入学祝いにPC-8801を買ってもらった喜びは、いまでも覚えている。
あの頃からデジタルは、時間もかかったし、面倒くさかった。人間に対して少し大きな顔をしていたけれど、今はチョット楽しい思い出だ。
大学に入ると、研究室にはApple2とか、IBMのディスクトップはあったけれど、まだインターネットの前身だったARPANETがNSFNetに移行したばかりのころ。僕がネットに触れるのはまだしばらく先のことだった。
前田知洋(まえだともひろ)
クロースアップ・マジシャン。1988年、東京電機大学工学部卒業。卒業研究論文は人工知能。100以上のテレビ番組に出演。海外での出演も多く、チャールズ皇太子もメンバーの英国マジックサークルのゴールドスターメンバー。「Hanako」(マガジンハウス)で人生相談、「ナンプレファン」(世界文化社)でコラム「日常の暗号」を連載。現在は建築誌「モダンリビング」(アシェット婦人画報社)でエッセイを連載中。主な著書に「知的な距離感」(かんき出版)、「人を動かす秘密の言葉」(日本実業社出版)など。公式サイトへのリンク
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