なぜ人は、ミッキーマウスのチャックを開けようとしないのか?
観客がマジックのタネに注目したがる理由
「なんで観客はマジックのタネに注目をしたがるのか?」についてディスカッションしてみることにしました。参加者は、子供たちにマジックを指導することも多く、この対話の場を設けてくださった治療家の鍛治中 政男さん、多くのマジックの書籍を翻訳、出版し、マジックに造詣の深い角矢 幸繁さん、そしてクロースアップマジシャンの前田 知洋です。(このノートはFacebookグループでディスカッションを再構成したものです)
観客とマジシャンの間に壁はあるのか?
前田知洋 1950~60年の頃だと思いますが、多くのマジシャンの考えの主流は「観客を物理的にも精神的にも舞台にあげるべきではない」というものでした。そこに革新的な二人のスターがそんな固定概念をこわして人々を熱狂的にさせました。
ひとりはトニー・スライディーニです。彼は、観客をマジシャンが座るテーブルに座らせ、道具を調べてもいい、途中でコメントをしても良いというスタイル(現在、多くのクロースアップ・マジシャンが演じているスタイル)をマジックのコンベンションで披露し、世界中のマジシャンをおどろかせて多くの人をファンにしました。
もう1人は、ロバート・ハービンです。彼はジグザク・イリュージョン(アシスタントの女性を3分割にするマジック)をおこなったときに、切断されたアシスタントの手やお腹を、舞台に上げた観客に触らせるという演出で、多くの観客を驚かせました。
ロバート・ハービン
©Associated Television (The New London Palladium Show 1965)
蛇足ですが、マリーニはクロースアップマジシャンだったと多くの人に誤解されていますが、じつはステージマジシャンが本業だったといわれています。
マックス・マリーニ(Max Malini 1873-1942)借りた帽子の中から氷の塊を取り出すなど、即興にも見えるマジックで人々を驚かせた。アメリカの大統領や英国バッキンガム宮殿でもマジックを披露している。
鍛治中 政男 バーノンが「マリーニはステージよりもクロースアップの方がいい」というニュアンスのことを言っていたと、どこかで読んだ記憶があります。本業はステージだったんですね。
ダイ・バーノン(Dai Vernon 1894-1992) 多くの古典マジックを現代的にアレンジするとともにオリジナルのマジックを広く発表して近代マジックの基礎を作った。世界中のベテランマジシャンたちから尊敬され、その知識の豊富さから『プロフェッサー』と呼ばれた。
前田 おそらく、その時代はクロースアップがショービジネスになるとは思わなかったんでしょうね。マリーニは、クロースアップショーでお金をもらったことはなかったそうです。と、自分が見たように話していますが、このソースは、スペインのエスコリアル・コンベンションで聞いた、子供の頃にマリーニのマジックを見たというミルト・ラーセンをはじめ、マジック界の重鎮たちの話です。
ミルト・ラーセン(Milt Larsen 1931- )ハリウッドにあるマジックの殿堂と呼ばれる会員制クラブ、マジック・キャッスル(The Magic Castle)のオーナー。
角矢 幸繁 これはデビッド・ベンさんが仰っていたのですが、まず街の名士たちを集めたパーティーでとっておきのクロースアップを見せる→名士たち衝撃を受ける→口コミでマリーニは凄いと広まる→ステージのチケットを売る→この話が他の街にも広がる→マリーニはその街へ赴いて、街の名士たちを集めて…というのを繰り返すマーケティングのスタイルだったそう。あくまでも、クロースアップはプラスアルファで、それは集客の目的だったようです。マリーニは卓越したマジシャンであり、かなり優秀なプロモーターでもあったんです。
デビット・ベン(David Ben 1961- ) マジシャン、著述家、歴史家。マジックの古典に精通した技巧派。高貴な演技で有名。
鍛治中 なるほど、当時はクロースアップはPRの場だったんですね。
前田 話を本題に戻すと、スライディーニもハービンも、マジシャンと観客の境界線を取り払うこと、「ホントは、舞台と観客っていう段の差は、存在していないんじゃないの?」ということを示して、マジックの別の魅力を推し進めたと考えられている。だから、ボクは、鍛冶中さんのいう「なぜ人は、ディズニーランドでミッキーマウスのチャックを開けないのだろう?」という意見を拝見して、とても共感できました。僕は、人々がディズニーランドで人が熱狂するのは、ミッキーが舞台や画面から境界線を越えて、自分のところに降りてきた部分にあると思うからです。
問題なのは、なぜ目の前のミッキーのチャックを人々は開けてしまわないのか?の部分だと思うんですよね。
鍛治中 そうです!まさにそこです!
前田 ときどき耳にする「マジックは観客が入り込めないようにするべき」という考えは、スライディーニとハービンは、ちょっとガッカリしちゃうと思うのですよね。経験の少ない若いマジシャンたちは、観客からのヤジを恐れて、その「デザイン論」に魅力を感じるのかもしれません。しかし、「なぜマジシャンの演技をヤジで妨害してはいけないのか?」というのは、「日常においても、他人の話を中断してはいけない」という社交ルールの問題だと、僕は思っています。そこは、マジシャンが心配するとことじゃない。
角矢 若いマジシャンは、どうもこの辺りで思考停止しているように思えて仕方ありません。逆に、そういう若い世代は観客と意思疎通をすることが出来ないんじゃないか?と思う節があります。観客と「対等な関係で」意思疎通が出来ていれば、話を中断しちゃいかんということは相手が分かるはずだと思うのです。
前田 それ、ボクも感じます。「かたくな」というか…。観客と恋愛しない感じ(笑)
角矢 そうなんですよ、観客と恋愛をしていないんです!こんな片想い、凄く寂しいと思うのです。
前田さんを拝見していると、いつも「構えあって構えなし」という宮本武蔵の言葉を思い出します。
前田 武蔵本人が『五輪の書』を書かなかった(といわれる)のは、やっぱり「こうあるべき」って「デザイン論」を決めてしまうと、剣術の無限の可能性を狭めてしまうということを知っていたからと、ボクは勝手に推測していいます。その点、「5つのポイント」だけを、とりあえず解説したタマリッツは慧眼だと思いますね。
ワン・タマリッツ(Juan Tamariz1942- )スペインのTVに数多く登場し国民的マジシャンとなる。エネルギッシュでコミカルなマジックで知られ、世界中に多くのファンがいる。
角矢 タマリッツさんが1冊の本を書きあげるのに少なくとも10年以上の年月をかけるのは、その無限の可能性を知っているからなのかもしれません。書きあげたら、その時点でまた新たな事項が増えていく、そのくり返しなんじゃないかな?と思いますね。ご本人も「書いても書いても、書かにゃならんことが増えていく」って仰っていたのを思い出しました。
前田 タマリッツさん、そんなに時間をかけるのですか!ボクは推敲が少ないのでちょっと反省です。
なぜ人は、ディズニーランドでミッキーマウスのチャックを開けないのか?
前田 鍛治中さんが「種明かし番組」の影響について、子供たちに心配してることも、とてもよくわかっていて、子供(や一部の大人)は、テレビの芸能人の振る舞いを真似するので…。それは、ボクも心配なのですが、ゲバゲバやドリフの頃から、テレビはそんな資質を持っているのも確かです。でも、僕らはちゃんと大人になったので、子供の側に鍛治中さんみたいな人がいれば、心配は要らないかと。
角矢 たしかに選択肢を与える作業と言うのは大切だと思います。テレビでやってることだけじゃなくて、マジックにはこういう楽しみもあるし、ああいう楽しみもある、そう言う事が言える大人の存在は重要ですよね。今流行りの「キュレーション」みたいですが。鍛治中さんのように経験と知識に裏打ちされた方が指導されているというのは頼もしい話だと思います。
前田 この辺で「人はなぜミッキーのチャックを開けないか」という問いに一歩進んで、お二人の意見を聞きたいところです。僕自身が夢の世界、ディズニーランドなどで、そんなことをしないのは、自分の世間体と「仲間内にいきがる」みたいな中二病は卒業したぐらいしか、今は思い浮かびませんが…(笑)
角矢 私がミッキーのチャックを開けない理由は主に2つあります。一つは私の亡父の影響です。亡父は名古屋で役者さんや芸人さんのタニマチをしておりました。その関係でいろいろな俳優さん、芸人さん、マジシャンも含めて我が家にいらっしゃいました。子供なのでマジックは好きでしたし「タネ、どうなってるの!?」と事あるごとに言っていましたが、ある時、父に「芝居でも行儀よくしてないと、もうお前には芸を見せてくれないぞ!お前が意地悪されたら機嫌が悪くなるだろう?みんな同じだ。芝居が始まったら騒ぐな!」と怒られたんですね。そして芝居やマジックショウでマナーの悪い大人を見せて「あんなにみっともない人間になりたいか?」ともよく言われました。父は観劇のマナーを教えたのでしょうが、このインパクトは強かったです。
二つ目は、松田道弘さんの名著「トランプ・マジック」の中で紹介された「人形使いのポーレ」という小説を読んだことにもよります。主人公の少年が夢中になった人形芝居の人形が、白昼釘にひっかけられてぶらさがってる様子を見て無残にも夢が打ち砕かれるという話です。あ、これは絶対にツマラナイ。なるほど、種明かしとか考えても仕方ないんだなぁと思いました。
思うに、レストランで食事をすることに似てるな、と。一流のシェフが腕をふるって、自分が一番良いと思っている状態で提供してくださったお皿に、お客さんが何も考えずに醤油をドバーとかけたりするのは愚の骨頂だと思います。そのシェフの料理を最大限に楽しむには、それなりの心構えが必要だと思うんですね。観劇も同じように感じます。提供する側の心が伝われば、そんなことは少なくとも出来ないでしょうね。
前田 醤油をドバーって、やっちゃうと、シェフから「あの客は、次は予約入れないないでね」となって、その客が店に行くと「満席でございます」って言われちゃう。それが、文化を守るシステムなのかもしれませんね。
だから、ときどき誰かがいう、「マジックの普及」とか「マジシャンの地位向上」とかって、じつは反対のことをしちゃってる気持ち悪さが僕にはあるんです。
角矢 全くその通りだと思います。これが文化を守るシステムなんですよね。折角大切な宝物を見せるのだったら、その素敵さを共有したい素敵な方々にお見せしたいですから。それに、縁なき衆生は度し難しというのはあると思うんです。そう言う方に無理やりマジックを見せる義務ってないように感じるんですよね。あと、無粋だからというのも大きいと思います。折角楽しい時間を過ごしに来たのに、自分の無粋な行為でもっと楽しめた時間をそこそこ楽しめた時間に貶めたくないですよ。
前田 人がチャックを開けないのは、「夢の世界からの出入り禁止が怖いから」と。ロンドンのマジックサークルが「メンバーじゃないと、建物にも入れないよ」というハリウッドのマジック・キャッスルよりも厳密なルールがあるのは、紳士たる土壌があるのかもしれません。チャールズ皇太子にオーディションを受けさせたくらいだから、筋金入り(笑)
角矢 なるほど、この「紳士であれ」という部分が肝のように感じますね。
鍛治中 私がミッキーのチャックを開けない理由には段階があります。私は小学校1年生の頃に校医をしていた、通称おじいちゃん先生にシンブルの手品を見せてもらい、更にテレビでランス・バートンのFISM優勝アクトを観てから、マジック熱という厄介な病気にかかりました(笑)当時は教えてくれる大人もおらず、お小遣いもないので本屋で手品本を立ち読みしてはひとネタひとネタ覚えていってました。お小遣いが溜まると必死で吟味して一冊の本を選んでいたものです。今思えば最も知識欲が強かった時期かもしれません。この頃はマジックを演じる事よりも、より沢山のタネを知ることに情熱を燃やしていたような気がします。実際、この時すでにテレビでプロマジシャンが演じるタネは全部わかっていました。
当時の私はタネを沢山知っていることがスゴイことだと大きな勘違いをしてました。テレビでマジシャンが不思議なことをするたびに「アレはこうなってるんだよ!」と母親に得意げに解説してました。きっと、スゴイね!よく知ってるね!って褒めてもらいたかったのでしょう。でも、母親は予想に反してガッカリした顔をしたのです。何も言われませんでしたが子供心にいけない事をしてしまったのだと悟りました。あの時の母親の顔は今でも覚えています。それからですね、誰にもあの母親のような顔はさせたくないと思い始めたのは。結婚して子供が産まれてからは更にその気持ちが強くなりました。
その頃は他人をガッカリさせないようにだけ気をつけていたのですが、仲間内で知ってるタネやプロをそのままコピーしている演技を観た時に、今度は自分の顔がガッカリしていることに気づいたんです。実際顔には出していなかったので正確には心がガッカリしていて冷たく何も反応していないことに気づいたんです。このまま無感動・無感情になっていくんじゃないかと自分で自分が恐ろしくなりました。タネ自体に興味がなくなったのはその頃からです。無目的にタネを漁ることは、自分の中にあるマジックへの愛という樹を枯らしていくだけなんじゃないかと。そんなことよりももっと水を与えたり不要な枝を剪定したりして花を愛でて時には少量の果実を味わうだけで十分幸せなんじゃないかと、やっと思えるようになったんです。
こんな話を他人にするのはこれが初めてですが、自己分析してみると私がミッキーのチャックを開けないのはどうやら自己防衛のようです。きっと心が枯れることが恐ろしいのでしょう。心が枯れて上っ面の心地よさだけ求めてさまよいたくないんでしょう。前田さんが仰った、「夢の世界からの出入り禁止が怖いから」に近いモノだと思います。心が枯れた人間には夢の世界の門は開かないでしょうから。私はもっと多くの本当の心地よさを深く芯まで感じたいんですよね。そのためには心の樹が潤ってなくちゃいけません。他人を幸せにすることが自分の心への水やりや肥料になって、無駄な枝葉を剪定することで花が咲き実がなる。そうすると相互作用で周りの樹も元気になる。そして逆に枯れた樹は周りの樹も枯らしていく。
今後まだまだ考え方は変わっていくかも知れませんが、このベースは変わらないと直感的に確信しています。まずは健康で元気な樹を集めて森を作っていくことが肝要かと。散らばっていてはダメだと思います。あるいは散らばっているように見えても根っこは繋がっていなければ。そういう意味で今、角矢さんや前田さんたちを中心に広がっている繋がりは本当にすばらしいと思います。私もその一端を担わせていただいていることに喜びと幸せを感じています。
ひょっとしたら夢の世界の門には鍵などかかっていなくて、心が枯れている人は自分で開けようとせず遠くから眺めているだけなんじゃないかと。更にひょっとしたらなのですが、そういう人たちは夢を見ることを「騙される」、夢を見せることを「騙す」と混同しているんじゃないかと。他人を騙す術を持っていて騙されない自分は他よりも優れているんだと考えているんじゃないか?と穿った見方をしてしまうのです。
前田 鍛治中さんの話を聞いて、ある1つのラインが見えるようになった気がします。それは、ジェントルな人とそうでない人のライン。そのジェントルという言葉は、「優しさ」であったり、「他人や文化、伝統を敬うこと」が含んでいる。
だから、マジシャンは「ジェントル」であるべきなのかもしれません。それは、ジャケットを着ているとか、タイをしているという意味ではなく、精神の問題。
ウーダンの言葉に「人はただ騙されたいのではなく、紳士に騙されたいと思っている」という言葉があります。今は、より深くその言葉が聞こえるような気がします。観客に対して紳士であるだけでなく、マジックや歴史、他のマジシャンに対しても紳士であるべき。そういう意味では、僕にもなおさなければならない部分もたくさんあるのですが…(笑)
ロベール・ウーダン(Robert Houdin 1805-1871)それまでのマジシャンが着ていた魔法使い風のローブから、当時の社交界に馴染むように燕尾服を着た。舞台の照明を明るくするなどをして、現代マジックの父と呼ばれている。
それが、マジックに愛されること、観客に愛されることの鍵なのではないかと…。恋愛と同じなんですが(笑)
あと、もうひとつ印象に残ったのは鍛治中さんの「枯れた樹は周りの樹も枯らしていく」という言葉。僕は、マジック以外でも「枯れた木みたいな人」を見ると、走って逃げたくなる(笑)
角矢 やはり「ジェントル」と言うのが、キーワードなのかもしれませんね。
前田 もう一歩踏み込んで考えてみたら、出入り禁止になるであろう夢の世界が、しっかりと構築されている必要がある気がしてきました。つまり、ディズニーランドなら、入り口ゲートのところにお姉さんがちゃんと「夢の世界へようこそ!」なんて言う。
そして、その夢の世界が観客に「この世界から出入り禁止なったらヤバいなぁ」と思わせるほどの魅力があればいい。その世界観を構築できたら、「タネがどうのこうの…」とはならないんじゃないじゃないかと、僕はそんなことをこのディスカッションで再認識しました。
鍛治中 せっかく、スライディーニやハービンが取り払ったマジシャンと観客の境界線や段差を、ふたたび作ってしまわないことが大事だと思います。「アレはするな、コレだけをしなさい」と観客に上から命令する様な態度だったり、何か余計な事をしないか監視される雰囲気では、観客との段差や距離感は縮まらず、観客はマジックのタネにとらわれるばかりではないでしょうか。人は自分の人間性や価値を認められると自ずからそれに相応しい行動を取るようになります。束縛や抑制または警戒をするのではなく、観客を紳士淑女としてもっと信用するべきではないでしょうか?
観客と信頼関係や一体感を創造すること、それがマジシャンも観客もタネにとらわれずにすむ解決策のひとつであると思います。
角矢 あと、マジックは「何を演じるか?」よりも「誰がどう演じるか?」という部分も非常に大事なのでは?
世界中のマジシャンを拝見してきて、単純な古典的マジックでもあっても演者が変わるとこんなに面白さが違うのか!と驚く事が何度もありました。何がこの差を生みだすのか?と考えた時、演じているそのご本人の面白さなんだ!と分かったんです。
どれだけマジックが凄くても、ある程度は誤魔化せてもマジックそのものは決して演じる人を輝かせません。外見だけではなく内面も「一人の人間」として魅力ある人が演じるからこそ、マジックの持つ凄さが最大限に輝くのでは?と思います。
マジックを見て頂く観客に「この人は素敵な人だ」とか「この人と一緒の時を過ごしたい」と思って頂けた上で、自分の大事なマジックを大切にお見せすることが出来たなら、相思相愛になっている観客の頭の中から種や仕掛けというものは雲散すると思います。
(2012年3月23日)